杜の樹神(もりのこだま)5月号~隨處作主立處皆眞

隨處(ずいしょ)に主(しゅ)と作(な)れば立處(りっしょ)皆(みな)眞なり…臨済義玄

 如何なる環境にあってもそこで主(あるじ)となっていれば、そこがどこであってもそこは真実の世界となる。

 臨済義玄は、臨済宗の祖です。峻眞気鋭で直截な言語でもって禅風を押し広げ僧俗におよぶ大衆を教化し荒れた八世紀の唐社会を導いた和尚です。

 主(あるじ)となるといっても、その場で皆を従える親分に慣れといっているわけではありません。

 日本臨済宗中興の祖白隠禅師は、東海道の宿場町で大名から農家の主婦に至るまで、ふくみわらいをしたくなるような絵を描いて教化活動を続けた禅師ですが、あるとき、佛の世界・浄土を描いてくれと言われて一幅の東海道の風景画を描きました、東海道の何処でも見かけるられるような、人が行き交いする当たり前の絵です。

 そこにはこう書かれてありました。「東海道、駕籠に乗ってゆく人、その駕籠を担ぐ人、担ぐ人のわらじを作る人」

 駕籠に乗る人は乗る人で、目的地に行くために乗るので、本分をはたしているのであり、担ぐ人は担ぐ人で、行うべき仕事をこなし、わらじを作る人はわらじを作る人で履く人のために仕事で本分をこなしているのです。それぞれがその場その場で主となっているわけです。

 人は人、それぞれに置かれた環境があり、行うべき本分があります。それがその場その場で主(あるじ…主体者)となることです。あるじといってもリーダーや親分になることを意味してはいないようです。その場その場で本物になっていなさいということです。

 国会は、与野党が国の安寧とか未来を論ずるところであって、モリやカケなどと、過去の注文の取り違えを繰り返し論じ合うような蕎麦屋の店先とは違います。

 各省庁の役人は社会の状況を正確に記録し行政の行く先に公共の政策に正確な情報資料を示し、事実の歴史を後世に残すのが本分で、行事記録を改ざんしたり隠匿することではありません。

 行政のトップに立つ人は、社会の進路を正しく導くことであって、過去をうやむやにしたり票田を拡大するためにだけ奔走することではありません。

各省庁のトップに立つ人は部下の不祥事を隠ぺいすることが本分ではないはずです。

 海を隔てたお隣さんには、人権や社会倫理を守ったことがない軍事大国が二つもあって、この両国に欠けているのは、豊富な資源を十分に生かして使える高度な技術と、能力豊かな大量の技術者です。

 そののどから手を出したくなるような宝の山が日本です。今までは、世界雄一の軍事大国米国が、しっかりと目を光らせて護衛してくれていたおかげで、スターリンも毛沢東も手を出せずにいましたがましたが、その米国の警察国家としての役割を維持する力が相対的に低下してきています。危険が大きくなりつつある時に、国会でモリカケ論争とは、悪い冗談です。

洞雲山 江岩寺(臨済宗妙心寺派)

江岩寺は、愛知県小牧市北東部丘陵地帯の大山区に位置しており、緑豊かな自然環境のなか小牧市最高峰、標高約300mの天川山を背景にして静かに佇む山寺です。 山の中腹に大山寺塔跡、兒神社(ちごじんじゃ)不動堂、 そしていくつかの古墳、麓に江岩寺と薬師堂があり、 これらが連なる開析谷一帯は国の史蹟に指定されています。